ゲームに逃げても、音楽に逃げても、本に逃げても、YouTubeに逃げても、何処かへ出かけても、何かを買ってもダメだ。
退屈や不安、自分の無意味さ、怠さからは逃れられない。自分の感性の幾らかが消えてしまったような気もする。
単なる疲れだろうか。自分のスイッチを切って、強制的に休みたい気分。
ゲームに逃げても、音楽に逃げても、本に逃げても、YouTubeに逃げても、何処かへ出かけても、何かを買ってもダメだ。
退屈や不安、自分の無意味さ、怠さからは逃れられない。自分の感性の幾らかが消えてしまったような気もする。
単なる疲れだろうか。自分のスイッチを切って、強制的に休みたい気分。
家のすぐそばに塾があるし、ちょっと歩いてもあそこに塾。こっちにも塾。
この時期なんかだと「夏季集中なんとか」とかいって、張り出しをしている塾が多い。
かくいう自分も中学時代にはそういうものに参加させられて(せめて学だけは・・・という親の想いなんだろうけど)、朝から晩まで一日中勉強させられるのか!?なんという地獄だ!と抜け出して、挫折した記憶がある。この頃から社会に適応できなかったと思う。親の期待には沿えなかった。
学ぶために、その機会を保障するために学校があるのに、それだけでは足りない、競争に勝てない、(学びが、いつの間にか競争になっとる)勝てないと将来困窮する、惨めな人生になるとは、学びとは何なのかと考えてしまう。
結局これって要は投資で、将来の儲けを当て込んで今ある時間と労力をつぎ込むこと。そして、是非ともそうしてほしい連中がいるってことだよなぁ・・・。不安を煽るのが人を動かすうえで特に適していると思う。
きちんと勉強しないと、努力しないと、あれとか、これとか、それとか、ああいう風になっちゃうよって。
競争に敗れた挙句が自己責任とは、なんと世知辛い。尤も最近では自己責任!自己責任!と糾弾する元気ももう無くなってきたように思うし、そもそも競争に参加することさえ難しい人もいるだろう。
電車の広告に「障害を持っていても働ける環境を」みたいな就労支援の広告があった。
障害はそうだし、病気や境遇、性別もあるだろう。「そういう人でも働ける社会を!社会進出を!」っていうのは確かに多様性のある社会なのだろうけど、一方で「そういう人でも働かなければならない。働けない人間に生活する、生きる価値はない」というメッセージも暗に送っているような気がするのだけど、性格が悪いだろうか。実際そんな風に思って、自分を追い詰めていく人も少なくないでしょう。
これまでは不遇だったが、頑張って正規雇用を勝ち取る。これまでは何も無かったが、努力して資格の勉強をして前よりいい仕事に就く。
良いこと、努力を賛美することの裏に、差別意識がべったりと張り付いているような気がしてならない。通常、何もしない人を肯定することは難しいように思う。皆があいつよりも、あの人よりも上を目指す結果、全体のハードルが上がる。ついていけない人が相対的に増えるのではないか。
いつも言っているけど、家にはあまりいたくない。こういった長期休みの時には特に。
そこで何処かへ出かけたいのだけど、行きたい場所は無いし、休みだとどこも混雑している・・・。路上しか居場所がない!ともかく思い付きで行ってみたのが高蔵寺駅周辺の墓地。前回の定光寺駅の一つ手前の駅。
休みの日に出かけるのが墓地かよ!って話だけど、ただの墓地ではない。高台にあって見晴らしは抜群。因みに高蔵寺は駅の名前程度にしか知らなかったのだけど、右下の建物が「それ」らしい。職場のあの人はこの辺りから通っているのか。
一緒に近くにある水晶が取れる崖があるとのことで行ってみたかったけど、暑さと近所のおじさん?がいて不審者扱いされそうだったので断念・・・。
仕事はついに毎日残業にまで駆り出されて、入社当初65キロあった体重が58キロまで落ちて、体力が落ちてつらい。働きだしてやつれて体力が落ちるってどうよ・・・。就労の、継続の、支援・・・?
すぐに転職というのは難しいし、決行したからといって上手くいくとは限らないことはもう4度も経験したこと。
良い流れが来るのを待っているのだけど、それを作る社会との繋がりがなくて、日々仕事が終わって「家」が始まり、孤独感というか、もうどうにもならない、どうにもできない閉塞感の中で溺れそうな気分だ。本当に苦しくてしかたがない。
働かない方が良いよ。
そう言って、投資で食っていけるようにこれまで何年も勉強し、いよいよ実現に向けて動き出すのだ!とかなんとかで、彼は旅立って?行ったが、労働から解放されても多分退屈が襲い掛かってくるぞ・・・。
金や労働以外の根拠が無いと、結局生きていくことが苦しく、重荷になる。
先日会った時には、すでに退屈に襲われ始めているような節があった。
人生に正解はない。だから自由にしていいのだけど、自由にしていいと言われて喜ぶ人がどれくらいいるのだろうか。「自由って言われても・・・え?なにを・・・どう・・・?」と困惑する人の方が多いのではないか?よって、皆がすることを皆がするようにするしか、結局はなくなる。