一人舞台

落ちてしまいそうな自分を、どうにかこうにか支えている。

落ちてしまいそうな自分を、どうにかこうにか支えている。

ひきこもっていた時期を思い返して

直近にひきこもっていた期間が約8年だった。それから働きだして、1年と2か月が経った。

ネットなり、本なり、通院先のデイケアなんかで世のひきこもり体験の話を聞くと、自分とは違った感じがする。そこまで「病的な感じ」ではなかったなと。

なんで自分がひきこもったのかと考えると「そこにしか居場所が、逃げ場がなかったから」こういうことだったと仕事中に思いついた。

一般社会に適応できない人間が、普通についていけない人間が、市場の原理が生活の中にまで入り込んだ世の中でどう生きるのか?ある人は福祉で、ある人は生活保護で、ある人は不労所得で、ある人は家族に面倒を見てもらう、ある人はひきこもって親に面倒を見てもらう。こんなところだろうか。

市場社会は稼げはしない、消費も生産もしない市場的な意味での無価値な、無意味な人間を許さない。

よって老人は働かなければならない。病気や知的、精神障害があっても働かなければならない。体力が無くても、不器用でも働かなければならない。最大限働け!カツヤクしなけりゃあならん!働けない子供はどうか?あれを買え!これを買え!消費の対象である。

何の仕事に就いて、どんな肩書があって、いくら稼いだかが人間の価値なんだろうか。

ひきこもっていたけど、病気や障害があったけど、不幸な生い立ちがあったけど、難しい資格を取得して、良い企業に入って、金を稼げるようになった!努力したから!パートナーもできた!過去の「無意味な自分」とは違う!とうそぶくじゃないか。

そうやって過去の自分に似た人たち、未だそこから抜け出せない人に嫌悪を覚える。

これこそが自分の生きづらさの最たる原因だなぁと思いついたけど、逃げ場なんてあるのかね・・・。自分の中でのひきこもり原因は何も解決していない。やっぱり苦しい。

考えれば考えるほど「さっさと埒外に歩み去るがいい」のではないかと思えてしまう。

 

 

当ブログではGoogle Analyticsを利用して、アクセス解析を行うためにcookieを使用しております。 Google Analyticsで集計したデータは、当ブログのアクセス解析や改良、改善のために使用させていただくものとします。 なお、cookieは個人を特定する情報を含まずに集計しております。 Googleによるデータの使用については、「ポリシーと規約」を参照してください。