人間の感情において、喜びや楽しみは初めから人の間に生じるのが、通常である。
その感情は当事者一人で完結しない。なぜなら、喜びや楽しみ、嬉しさなどは、その根底には他者による肯定や承認があり、それを条件に成立する感情だからである。
誰からも「よかったね」「がんばったね」「すばらしいね」「面白いね」と言われない行為を、我々は喜んだり楽しんだりすることはできない。
100点のテストを誰からも褒められず、誰にも評価されなくて、誰が一人で喜べるだろうか。誰かと一緒に「楽しいこと」としてその行為をすることなく、誰がそれを「面白い」と感じられるのだろうか。
南 直哉著 仏教入門より
ここ何年かで、急激に物事を楽しむことができなくなった理由がこれに該当するのでは?と読んでいて思った。
学生時代は友人なり、弟なり、遊び相手がいたけれど、時と共にそういった人たちもいなくなって、気が付けば家と会社の往復、人間関係がないわけではないけど、一人で過ごすことが多くなった。
時折集団や関係から離れて一人になる時間、そういう孤独はあってもいいのだけど、一人でいるしかない、何事かを共有できない「孤立」になると、やっぱりつらいというか、空虚な感じになるよなぁ・・・。
自分とは一体どういう存在なのか?それは他者との関係においてこそ決まる、課せられると著者は語る。そこが欠乏しているのだから、空虚になるのも当然か。
とはいえ、じゃあ闇雲に人間関係を結ぶのが良いのか?と聞かれれば、それはそれでしんどい。害を及ぼす人だっているだろうし。
望んで一人でいるのか、人間関係が苦手だからか、外的要因で苦手になったのか、先天的な話なのか、いずれにしろ空虚に感じる程度にしか、他者との関係を結べなかったのだと思う。わからないんだよ、どうすればいいのか。
この後、「他者に課せられた自己」課す他者からの肯定や承認が得られなければ、課せられた自己は重圧にしかならない。これをついに引き受けきれなかった末路が、2008年に相次いで起こった事件と共に語られる。