一人舞台

生きづらさに悩む、元ひきこもりのブログ、日記

生き辛さに悩む元(暫定)ひきこもりの「日記」

2021年、明けましておめでとうございます。

新年一発目の日記は・・・特に書くことはないです。

というわけで、練習がてらイラストでも・・・。

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人生悩んでばかりで「何もする気が起きない、何故だか楽しめない」では勿体ない。

人生一度しか無いのだから、楽しんだ方がいい。良い事を考えた方がいい。理屈ではわかるんだけどね。

 

新年早々ギターの弦が切れたぞ・・・!(;´・ω・)

 

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今年最後の絶望日記

職業訓練の見学の日が刻一刻と近づいてくる。(実は決心がつかず、まだ連絡すらしていのだが・・・)全く気が進まず、といって別の計画も無い。こののままでは親にネチネチ言われてしまう・・・と憂鬱で何をするにも気が重い。寧ろそういう時にこそ何か「やる事」があったほうがいい。気がまぎれるから。

年末の日記を書いたって誰も読まんでしょ・・・。そう思いつつも日記を書くくらいしか気力が無いので気分転換に書いてみよう。

 

仕事で残酷な「評価」の世界に晒される

何故働くこと「仕事」が嫌なのか。朝起きれない、長時間拘束されることが苦痛でしかたがない等、世間様から「たわけ!」と怒られるような理由がありますが、一番は「評価」を恐れているからかもしれない。

自分はどうも労働に対する適性が無いようで、どの仕事に就いても、反省して頑張ってみてもいつも怒られてばかりで評価は非常に低くなる。

多くの人も最初こそそんな感じなんだろうけど、これを克服して評価が上がっていくのだろう。自分はいつまでたってもそうできない。

「入って1、2週間の新人じゃないんだから!」「毎日何かしら怒られているよな!」とは必ず言われることである。

仕事さえなければ、さしあたり普通の人間なのに仕事に就くと使えんダメ人間と定義されてしまう。これは恐ろしい。

そんな経験ばかりが積み重なって、いつしかトラウマ・・・は言い過ぎかもしれませんが、根強い抵抗感に繋がっていると思う。人が怖いのも拗れた自己愛から来るのだろう。誰を見ても自分は劣っているのではないか?そんな気がしてならない。

 

そんなものだから、引きこもり用の仕事があってくれれば何とかできそうな気はするし、今度の職業訓練もそういった事情なら、進んで行くだろう。でもそんなわけないのである。

この前の障がい者の作業所の見学は当初は行く気満々だったし、そのまま応募する気さえあったのである。求人誌の写真の雰囲気や仕事の紹介を見て「これだったらひょっとして・・・?」みたいな感じがあったから。

だけど実際に見学して、スタッフに言われて絶望したのはやはり「仕事」なんだということだった。

仕事である以上、役に立つ、使える人間のみ価値がある。そうなれるのか全く自信が持てない。引きこもり期間も長くなってしまったし、周りから見下されるのではないかと更なる恐怖心が募る。

親は単に働けばそれで良し程度にしか考えてくれませんが、動き出せんて・・・。

仕事じゃない仕事ってないですかねぇ・・・。

こんな気持ちをどう変えればいいのかわからないし、こういうものが土台にあると、ちょっとしたことで心が折れるでしょう。自分で引き受けることを決意してできるとは思えないですから。

 

こういった胸の内を打ち明けられる人もいないし、いないとなると選択肢が、可能性が広がらない。

人間関係も自分を否定する親だけという・・・。一人でいることは平気ですが、こういう孤独は本当に心の毒だと思う。

自分は何もできない気がしてきて、来年は今更だけど絶望から始まるだろう。

 

社会復帰の難しさ

復帰の難しさは、当事者と経済社会の認識の隔たりにあるのではないだろうか

自分は家族との中は険悪という程ではないけど、といって良いともいえない感じであると思っている。

今度の陶磁器の職業訓練の見学の話も「見学→通うことになる→業界に就職」というシナリオと期待が親、更には祖母からも言動から感じられて大変苦しい。

相手の気分を損ないたくはない。そのつもりはないと常々思っているけど、「本音」で語れば、不快にさせてしまうことは容易に想像がつく。であれば、嘘をつき続けるか、口をきくことやめるしかない。建設的ではないよね。

 

世のひきこもりと家族関係の本にあるように仮に改善できたとしたらどうなるだろう?それでどこに行って何をすればいいのだろうか?

個人的に思う、事の難しさは当事者からすると「社会参加、復帰、自立」という認識になる。即ち働くこと。どのみち働くくらいしか道は無い。

これが社会の側からすると「経済活動」になるわけじゃないですか。「働く」なんていうのは当たり前で、組織の一員となり、会社に利益を上げる役に立つ人材であることを求められると。

多くの人はそれを両立できるから問題無いけど、自分のようなひきこもってしまう人はそれができない人なのではないかと思う。

だから、もし家族関係や自分の内面のごちゃごちゃしたものに一旦区切りがついたとして、社会に出てやっていけるのか?受け入れてもらえるのか?使える人間になれるのか?非常に心配で、同時に疑問に思う。

ひきこもりと世間

何年もひきこもった奴に、居場所は作れるのか?受け入れてもらえるのか?

 

数年前の障がい者の作業所の見学に行ったことや、それ以前の方々の面接のことを思い返すと、ひきこもり当事者と世間には大きな溝があるなぁということ。

当事者としては何年かぶりの世間、それも何度か挫折した「その世間」ですから不安になる。だからどうしても社会復帰のような視点で考えてしまう。

だけど、向こうからするとそんな事情や視点は全くなく、どこまでいっても「仕事」で、きちんとやってくれるか?使える人間なのか?そういうものしか求められていない。当たり前すぎるくらい当然のことなんですけどね。

 

その空気や状況、本気の「仕事モード」とでもいいましょうか、それに次第に耐えられなくなってくる。自分の甘さと期待と、世間との認識のズレに絶望し、益々ひきこもりは加速する。「自分が安心してやっていける場所はない・・・!」と。

長らく世間や人間関係から離れ、自分を否定する家族という「狭い世間」の中だけで生きてきた。そもそもそういうったものに上手く適合できないからひきこもってきた。そんな人にとって、この現実は厳しすぎる。自分には無理な気しかしない。また学生気分の抜けていないダメ人間と定義される。そんな不安ばかりが募って、いつしか本当に何もできなくなる。

その間にも周りにいろいろ言われるでしょうから、期待と要求を突き付けてくる周りに苛立ち、何をするにも億劫で、言われて嫌々やっている自分の状況に情けないやら腹が立つやらと更に更に復帰は遠のいてゆく・・・。

 

この辺を考慮した職場があれば、仕事と社会復帰の中間のようなものがあれば、抵抗なく入っていけるかもしれないなぁと思う今日この頃。

選択肢は多い方が生きやすくなるはずだ。

自分が思う孤独

自分の経験から考える孤独について

孤独というのは、やはり単に一人でいるという単純なことではなく、認めてくれる人がいない、悩みや問題を抱えているのだが話せる人が、とりあえず否定せずに耳を傾けてくれる人がいない。こういうところにあるように思う。

更に自分の問題を言語化できなかったら、即ち伝えられず一層孤独になるでしょう。

だから、いくら人間関係に身を固めても誰一人として本音で話ができないのであれば、話して否定されれば、孤独なのではないだろうか。一人になった時に「フッ・・・」とくるような。

問題や悩みを全部自分一人で抱えてしまう。抱えるしかない。そういう孤独は毒ですよ。

 

考えてみれば不思議なもので、愚痴や不満はともかく、誰しも表面には出さない悩みや考えがあって、内心それを認めてほしいと思うものじゃないですか。そうであるならどんどん話していかなければ伝わらない。でもほとんどの場合そうはしない。一方こうして匿名では書けると。

世の中易々と他人を受け入れるだけの余裕は無いのかもしれない。

辛い体験や苦労がそんなにも人を成長させてくれるのか、財産になるのか疑問ですけどねぇ。

 

 

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