一人舞台

生きづらさに悩む、元ひきこもりのブログ、日記

生き辛さに悩む元(暫定)ひきこもりの「日記」

悩みの辛い部分

といえば、その気持ちを持っていく場所がない。

自分自身で解決できる場合や、すぐに時間が解決してくれる場合はいいんですが、そうじゃなければずっと頭の中に居座り続けるわけですよ。

一瞬何かに集中し、忘れることもあるだろうけれど、消えることはなく何度でも表れてくる。

 

いろんな人に話してはみるものの、月並みな返事か、煙たがられるだけであろう。

或いは「でも~、だって~」「そんな事言ったって~」「続けりゃいいことあるって~」みたいな返事を繰り返し、いつの間にか話が逸れていったり。

尤も自分が相談されても解決まで持っていけるかどうかは、全く自信が無いし、無理だろう。でも、なるべく話には付き合ってあげよう、聞くだけ聞いてみようとは最近思う。

 

ずっと悩んでいると他の事に考えがいかないし、やる気も出ないし、ため息が止まらないし、こういう状態が長く続くのは御免被りたい。

 

一歩でも二歩でも先へ進むための足掛が、いつの間にか足を引っ張るものへと変わっていた。

逆に何故得られる物がないと思うのか、考えてみよう

現在自分が参加してしまったグループでは、「コミュニケーションを学ぶ」と称して次のようなことをやっている。

自己紹介

全員で参加する簡単なゲーム(これは無くなってほしい)

直近であった出来事を語る1分間スピーチ

BはAに声を掛けたが返事がない。Aの様子もいつもとおかしい。Aの心情を考えろみたいな問題。

複数の人物のイラストがあって、それぞれ何かをしている。

表情、服装、しぐさなどから何を思い、何をしているのか、どういう状況なのか、複数のグループを作り、それぞれで話し合って答えろというもの。

次回には、一人メンバーの名前を覚え、挨拶をするという宿題もある。

 

一体何が学べるというのか。理論的以上には何も学べないと思う。

 

例えば人と会話で相手を楽しませた、怒らせた、悲しませた。

こういう経験ってあるでしょう。逆も然りで、所謂喜怒哀楽があるわけです。

自分に関係する人に何かしら影響を与えた、特に怒哀だった場合、どうしてそうなってしまったのか一生懸命考えると思うんです。

家族、友達、上司、同僚、みな自分に関係のある人だから!

人間関係、コミュニケーションは喜びや、悲しみ、痛みと共に覚えるものだと思う。

良かったこと、嫌だったこと、それが「有無を言わさず」自分に訪れ、時には何故なんだと悩み抜き、答えを模索したり、行動したり、正に自分自身にぶち当たった壁として、それを乗りこえ、次に活かしていくものではないのか!

机の上でこれはこう、あれはこうなどと言っていたって何もわからない。

自分自身の経験でないし、有無を言わさない極地でもない、感情もない。

少なくとも、あのような学校ごっこでは不快にこそなれ、得るもの、学ぶものは自分には何もないと確信する。

 

そこから脱却したかったら、あのメンバーを一つのグループとし、どこかの企業に協力してもらって数か月間働くのがいい。それも接客業だ。

そして、できなければ、わけ隔てなくしっかり指導してもらえる上司についてもらう。

きっとキツいだろう。メンバーがまんべんなくキツくなるのがいい。

そうするとやがて「あれが辛かった」「これが出来なかった」みたいな会話が自然と生まれてくると思う。悩みを話し合うのさ。

それが「こうしてはどうか」みたいな解決方法を話し合うようになる。

こういう辛い極限状態にあってこそ、信頼や連帯が生れるのではないか。

そういう状態で生まれた信頼や友情はきっと大切なものになると思う。

何かしらの理由で疎遠になっても、あの時一緒にいて良かったと思えるかもしれない。

挨拶や雑談で生まれれば苦労はしないし、苦労を伴わなければ、それ程の価値も無いと思う。

万が一!仮にそれが無かったとしても、現実的なリワード!給料がある!これは大きい!

体力と時間を使って、対価を得るということを改めて学べるじゃないか。

それ以外にも「こういう仕事は向いていないな」とか「この部分に関しては良くできた」とか気づくことも多いんじゃないだろうか。

 

いざ自分がやるとなると尻込みしてしまうだろうけれど、それ故に大きなものを得られる経験になるのではないか。

単なる妄想だし、あれはあれで必要としている人、あそこいたい人がいるとも思うが、こう考えていたら、やっぱり自分には必要ないなと感じるのであった・・・。

集団の中にいると平均化される

自分の場合、集団になって意見を出し合う時、自分が何か思いついても一旦踏みとどまり、まず周りの意見がある程度出揃うまで待つ。

それから自分の意見と周りの意見にどれくらい認識の違い、ズレがあるのか考える。

何か変な事はないな?場違いなことではないな?と。

その検査に合格して初めて意見が出せる。つまり皆と同じような意見しか出せなくなる。

どうしてもそういう風になってしまうんだね。

 

他者との関係がより密接になるのである種の冒険心と勢いが消えてしまう。

だから一人は楽なのかもしれない。

 

人付き合いそのものや他者との関係性を全面的に否定するわけではないけれど、集団で何かをしようというのは、もうあきらめた方がいいかもしれない。

何十年も前から考えていたことが、昨日の一件でやっぱりそうかなという考えに変わり、出来る気も、やってやろうという気もしなくなってしまった。

そのかわり単独行動の分野を伸ばせて行けたらいいかもしれない。あるのなら。

 

あのグループはかつて凄く嫌だった学校生活の再来みたいな感じがしてどうにも受け付けない。

続けられるとしたら、「苦痛ではないが、得られるものも無い」か「苦痛ではあるが、とても意味のある、大切なのもが得られる」かのどちらかだ。

 

苦痛で意味も必要性も感じられず、時間とお金を使って続けるなんてあんまりだろう。

少なくとも自分はそうなんだ。

あれを続けることで、長年の就職の問題が解決できるとは、とても思えない。

そういう話が一切!出ないのである。

 

ここで一人思索に耽り、ひたすら文章を打ち込む方が何十倍も楽しいし、自分にとっては意味のある時間だよ。

まだ、何回か残ってはいるが、参加するのが億劫で仕方がない。

あの嫌~な感じはかつての学校のそれに似ている気がする。

辛いんだぁ・・・!辛いんだよ・・・!会社とはまた違った辛さがあるんだよ・・・!

あのグループそのものを否定するつもりはないし、自分にも恐らく何かしらの支援は必要なんだと思う。

だけど、ただ一言!ただ一言許されるのなら「違う!そうじゃない!」と。

何でどこに行っても悩んでばかりなんだろうなぁ。

もう力尽きそうだ・・・

昨日素晴らしい記事を見つけ、今日の1分間スピーチはコレにしようと決めた。

それを見てどう思ったのか、そこから見える就職支援に対する考え、ニートや引きこもりにとっての一つの救いになるのではないか。という原稿をコピー用紙3枚に渡って書いた。

時間を忘れ、熱中していたら2時間も掛かっていた。

しかし、すっかり忘れていた。1分という時間を。聞いてみたらやはり1分という限られた時間で話せということだった。

所々端折ってなんとか1分に縮めてみたし、要点はまとめてあるから伝わるだろうと、意気揚々とトップバッターを引き受けた。

あそこに参加していた人々も職に就いていない人、そこでの悩みを抱えた人もいたので、きっと何か訴えかけるものがあるだろうと考えていたのだが、結果は・・・。

 

スタッフ含め、全員こんな顔でした→(-_-)

 

その後に皆が日々の出来事語っていくのを見ていると、笑みが現れ、和気あいあいとし、質問も多数聞かれていた。

仕方がないとはいえ、見ているのが辛かった。なんて滑稽なんだ。あんなに熱中して書いたことがすっかり滑ってしまった。そりゃあ、日常の方が共感しやすいよな。

俺は浮いてんのかなぁ・・・。

 

前回の帰りに水族館に立ち寄ったとか、買い物に出かけたとか、喫茶店によったとか、そういう話があったが、信じられない。

自分は疲れ果てて、何にもやる気が起きないと残りの時間をぐったりして過ごしていた。なんでそんな体力があるのか。

 

その後に例の集団参加型ゲーム。もうそういうのいいから!という気持ちを抑えて、なくなく参加。なんだこりゃ。

 

今日のテーマはコミュニケーション能力のおさらいみたいなことだった。

国語の文章問題みたいなのにAやらBやらの気持ちはどういう風なのか答える感じ。

この辺りまでは興が削がれつつあったものの、意見を言うなどして極力参加していた。

 

この次にグループに分かれ、ある人物のイラストからどういうことが見て取れるのか、皆で話し合って、意見を出し答えるという問題が出た。

ここからがダメだった、一応意見を言ってはみたが、聞いているのかいないのか通ることはなかった。

やはり集団はダメだ。集団になると自分が消えてしまったような感じがして、一人の時のようなアイデアや気力が殆ど出てこない。

この時点で糸が切れたかのように完全に意欲が無くなった。

 

昼休憩。みんなでテーブル囲んで昼食を取る事が嫌だった。

そんな中、一人がこれから自分の分の昼食の準備をしなくていいからと相談していた。

そんな選択肢があるのか!とさっそく自分も採用。随分変な顔をされたが、こういう人間の気持ちは説明しても理解されないであろう。

昼食よりも静寂。一人静かに過ごしたい。

しかし、昼食の犠牲も虚しく、休憩所は話し声がうるさくて落ち着かない。

それでも我慢していると隣にあったピアノをどこからか来たおっさんが突然演奏し始めた。勘弁してくれよ。

逃げるように立ち去り、人の少ないロビーで過ごしたが、ここも話声がうるさい。

自分のためにあるわけでは当然ないが、居場所がねぇ・・・。

 

 

最後にADHDとは何かという講義があったが、今日の出来事、参加する意味などを考え始めたらぐるぐると頭を回り始め、全く集中できない。

精神をなだめる為、ラクガキをして時間を潰していた。

創造的なことはいい。思考の呪縛から一時的にではあるが解放してくれるし、絵の勉強をしていることもあって、その成果を確かめる意味もあった。相変わらず大した絵は描けないけどね。

こうしよう、ああしようと考え、出来たら嬉しいし、出来なかったら悔しい、勉強し直そうという気になる。こっちの方が有意義だ。

 

やっぱり何度参加しても意義が見いだせない。必要性がわからない。

コミュニケーションで困っているんじゃないんだ。

人が嫌な事や困難な事を乗り越えられるとしたらどんな時だと思う?

自分が思うには、確固たる信念や目指すべき目標がある時だと思う。

ねぇーんだもん!それが!

違う!そうじゃないんだ!と疑問膨らませ、ただただ苦痛を我慢し続けるだけなんだ。ついていけない。

仕事を続けていくことは相当大変だった。しかし思えば、あの時の方がまだ居場所があったんじゃないのか!?

少なくとも自分に与えられた、任された仕事があった。怒られてばかりで信用を失っていったが、評価されることもあった。前職の時のような良き話し相手だっていた。給料という対価があった。

ここには無いし、今後も難しいだろうし、作る気力ももうない。

 

電車に乗るのが嫌だったので近くの駅まで歩いて短縮しようと考えていたが、今回の一件を延々と悩んでいたら、結局家まで2時間半かけて帰ってしまっていた。意外と歩けるものだね。

 

もう疲れた。本当に疲れた。意味が見いだせないんだよ。

 

自分は集団を否定し、一人で過ごすことに情熱を注ぐ人を応援します。

 

 

 

 

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