一人舞台

生きづらさに悩む、元ひきこもりのブログ、日記

生き辛さに悩む元(暫定)ひきこもりの「日記」

念願のステアリングコントローラー

なんぞは買えるわけもなく、もし買ったとしても置き場所に困るだけであろう・・・。

そんな時に面白そうな物を見つけた。

1000円ちょっとなら、失敗してもいいかと思って買ってみました。

 

 

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デュアルショック4にそのまま取り付けて、ステアリングコントローラーっぽくできるアイテム。

3Dプリンターで作ったとのことだけど、出所がよくわからない。

 

 

 

 

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可動部にはベアリングが使われ、がたつきも無くスムーズに動いてくれる。

下のレバーでPSボタンを操作できます。

 

 

 

 

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難点としては、タッチパッドの隙間に爪を引っ掛けて固定するようになっているので、時々パッドが常に押された状態になって、操作を受け付けなくなることがある。

これを装備したら、タッチパッドは使えないと考えた方がいい。

他にやりようはなかったのか・・・。ともかく、その場合はこの部分を少し持ち上げてやるといい。

肝心の操作感はというと、確かに使っていて面白く、精密な操作ができるものの、慣れるまでが非常に大変です。ネジコンを初めて使った時もこんな感じだったように思う。

特に限界までハンドルを曲げようとすると、指がつらい。ハンドル部分に改善が欲しい所。

慣れれば化ける可能性があるので、加工して調整したり、ゲーム側でハンドルの感度、遊びの調整をしてあげるといいかもしれない。

 

 

 

 

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後、暗い所で光ります!

 

格闘ゲームFPSに比べて、レーシング「パッド」的なコントローラーは無いに等しいのが現状の昨今、こういう物を作ろうという心意気は大変すばらしいとは思うけど、手放しで賞賛できるクオリティでもないかなぁ・・・と。

タッチパッドとの干渉と、ハンドル部分の形状を改善できれば良いのだが。

孤独

生涯独身の記事を見て、「子供部屋おじさん」とはまた随分悪意のある言い方だなぁと思うと同時に、別に一人きりでいることはそんなにつらくはないでしょうと個人的には考えています。

というか独身であることに何故そんなに後ろ指を指されなければならんのか・・・。

孤独はつらいと言いますが、「そのような」孤独は大したことはない。

本当につらいと思う「孤独」は、学校でいじめられているのに誰も取り合ってくれないとか、真剣に相手の迷惑行為に怒っているのに軽くあしらわれるとか、集団の中で何かをしなきゃいけないのに、何をしていいのかわからない、自分の話を聞いてくれない、誰も気にかけてくれないとかそういう事だとこれも個人的に思います。

孤独を解消する手段を相手に求めてしまうが故に、逆に孤独を感じることもあるでしょう。

そもそも他者が存在するから、孤独もまた存在するような気もします。

 

自分はこれから先を通して、孤独についての思索を深めてみたいと思いますがねぇ。

成果なんてないよ

LITALICOを挫折して、ADDの診断を受けた病院で、就労支援をやっているとの話を主治医から受け、数か月前からちょこちょこ通ってはいる。

最近親に会う度に「成果は?なにか朗報はあるか?」と聞かれ、答えにくい・・・肩身が狭い・・・。

「いや~その・・・」とか「お気の毒ですが・・・」とか言ってはぐらかすのが精いっぱいである。

 

もうね社会に出るのが、長時間拘束されるのが、必要以上に人と会わなければならなくて、その間逃げられないのが不安で仕方がないんですよ。

仕事を問題なくこなしていける自信がない。ビジョンが持てない。想像できない。今までそういう経験をしてこなかった。

こんな感じだから就労支援なんて受けても、全く身が入らず、何もしていないことにたいする自責の念から単に時間を潰す、「一応参加していますから」という実績作りになっているような気がしてならない。

ニート、引きこもりが仕事を見つけましたとか、今度面接に行きますとかいう話をネットで見つける度に「なんでそんな気持ちになれるんだよ・・・」という気分になる。

 

思うに「こういう人間」前提で採用してくれる、そういう人間が中心の職場という救済措置のようなものがあれば、なんとかやっていけるのかもしれないけど、そんなものがあるとは思えない・・・。

 

本当に就労支援なんか受けて、満足してその後も上手くやっていける人とは何なのか?

そんな人は支援なんぞ受けなくともやっていけるだろうし、もしくはたまたまに思えてならない。

期待が高すぎるのでは

孤独死の話を聞いて、死に方なんて選べないし、いつかは死ななければならない星の元に生きているのだから仕方がないじゃいか・・・。それに好きで孤独を選んでいる方もいるでしょうから、「寂しい」とか「可哀そう」とかいうのもなんだかなぁと考えて、自分が孤独死したら(この瞬間死んだら数週間、あるいは数カ月は発見されないであろう)発見者はトラウマになるだろうから、その後の処理をどうするかだけが気がかりだなぁと。

 

それに対し、自然は凄い。死んで遺体が腐敗したとしても、別の生物の糧になって回っていくのだから、本当に良く出来ているなぁと。

怒る技術 書評

日本人は怒らなさすぎる。もっと日頃から適度に怒りを表出して、怒ることに慣れるべきだ!そうすれば突発的に「キレて」暴力を振るったり、うろたえて固まることもなくなるであろう。

と、同時に相手からの「怒りを受け止める」訓練も重ねていかなければならない。そこに相手と自分との差異を見つめる高度なコミュニケーションが開かれる、そして怒る時こそ「冷静でなければならない」と説き、「自分はどうしても怒ることができないんです」という人々に向けた「怒る訓練」も解説した一冊。

 

確か別の著書でもおっしゃっていたような気がするのですが、例え自分が間違っていたとしても、身を守る為に全力で弁解し、時には怒らなければならない。これは人間に与えられた正当な権利である。その上で、逆にふざけた、すぐに見破られる言い訳をするような奴は喝を入れればいいというような話が出るんですね。こんなことを言える人ってなかなかいないよなぁと。

 

それにしても中島さんの怒るエピソードがいろいろ出てくるのですが、どれも過酷過ぎる・・・。怒る訓練とはこんなにも険しい道なのかと考えさせられるし、それだけならまだしも、危害を加えられる危険があるじゃないですか。もしくは孤立したり。

それさえも訓練を重ねることで、ある程度回避できるようにはなってくるそうですが、お勧めはしないと・・・。

 

作中騒音問題で苦情を言いに行った家族の話がでるのですが、こんな連中を相手にするときには一体どうしたらいいのか。

氏だからこそ冷静に対処できたのかもしれませんが、それこそ訓練を積んでいない、怒り慣れていない人が対面したら、ブチギレて事件に発展することも大いにありえますし、実際にありましたよね・・・。

 

他には相手を注意するときは「まず聞き入れられない」と腹を括ること!とされています。

正しいことだから素直に受け取ってもらえるはず・・・なんてことを「おめでたい考え」と批判し、「正しいことだからこそ受け入れがたい」のだと説く。

他人を傷つけず、不快にさせずに動かそうなどと不可能であると。いや、可能かもしれないがそれは嘘で塗り固めなければならないと。

そして更に怒らない人は他人にも害悪を及ぼすと・・・。

それにしても氏の本が面白くて、かなり偏屈してはいますがハッとさせられることも多いですし、なによりとことん考え、追及し、考え過ぎて何を言っているのかわからなくなる程の人なんて、そうそう現れないだろう。

そして残酷で、過酷で、身もふたもない現実を突きつけられるのである。

一緒に借りた、ドラえもんのび太から見る人生訓的な本がつまらなく感じてしまう。

 

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