自分がこれまで経験したひきこもり支援やそれ系の就労支援で、憤りや難しさを感じるのは「内面に根深くあるテーマを問題にできない」ということ。
世の当事者が実際にどれくらい悩んでいるのかは全くわかりませんが、大なり小なりあるから抜け出せないわけですよね。
過去のトラウマとか、対人恐怖とか、根強い抵抗感とか、そういった問題こそが大きなブレーキになるのに、ここをなんとかしないことには挫折体験を繰り返すだけだろうにこういった問題を持って行く場所が、聞いてくれる人が、経験した限り無い。
まあ、出そうと思えば出せますし、それとなく出したこともありますが、やっぱりねぇ浮くんですよね・・・。周りの人たちにも何かしら引っかかるものはあると考えてのことだったんですが。
よく当事者同士で集まって、共有し合うのが最善みたいに語られるじゃないですか。
本人たちもそれを望んでいるみたいな。(本当なのかなぁ)
だけど、体験的には寧ろ集団でいる方が話づらくないですか?
先のように浮いたり、あまり取り合えってもらえず微妙な空気になったり、他の人が深刻過ぎて言いづらくなったりとか。
やはりどうしても「その集団にあった平均値をとる」ように思われる。集団に「合わせなければ」いけない。
親や兄弟や友人にしても、「働けばなんとかなる!それしかない!慣れだ!慣れ!」と全く取り合ってくれる気配はない。
で、次第に「何故いつまで経っても動き出さないんだ!」と追い詰められていくわけですよ。
ああせよ!こうせよ!と一方的に指令を出され、逆上する光景が目に浮かぶ・・・。自分が知らないだけで至る所にあるんだろうなぁ・・・。
内面の問題なんてそうそう解決できる問題ではないですし、他方やってみて上手くいく場合もあるでしょう。
しかし「やってみて」が幻想に近いレアケースであることは社会問題になっているのを見ればわかることですし、実際問題根拠がなければ「やれない」です。
一歩踏み出したら、今までの悩みの小ささに気が付き希望を持って朗らかに生きられ・・・るわけないんですよ。できなかったです。
勇気を出して一歩踏み出し、自己責任の元、誰もフォローなど入れず、「まあしょうがない」で済まされ、挫折し絶望する当事者が残るだけという・・・。
そうそう解決できないからこそ、できるなら悩みなど捨ててしまえばいい。だけどいつまでも悩みを持ち続けているのは、そうできない程自分にとって重要な問題なわけですよ。だからこそ、取り組む価値があるはず。
もうちょっと視点を変えて、こういう問題に切り込んでもらえる場所があればなぁと、願わずにはいられないです。