一人舞台

生きづらさに悩む、元ひきこもりのブログ、日記

生き辛さに悩む元(暫定)ひきこもりの「日記」

人間関係は悩ましい

人の身の上話を聞くと、動揺したり、あれこれ考え疲れてしまう自分がいる。

仕事や趣味の努力や成功した話。友達、恋人関連の話。家族、子供との話。

これがポジティブな話であれば、自分の身の上と比べて劣等意識が出てくるし、ネガティブであれば、そのことについて考え要らぬ心労をしてしまう。

彼らと同じものを手に入れたら、満足するのか?多分感じ方は違うと思うし、場合にはよっては重荷になるかもしれない。そうなんだけど、何故卑下する方へ考えてしまうのか。

だから人と深い関り合いを持ちたくないのかもしれない。

付き合いが長くなると、いずれ変化の時がきっとあって、その時に自分がどうするのか、どう考えるのか、うまくやっていけるのか皆目わからないし、そのことで決裂することや、疎遠にしたくなってくることもあるかもしれないと思う。

 

人と接する事が怖いという人の気持ちがわかるような、そうでないような。

人と接する事で沢山の事を学べる、教えてもらえる、育んでもらえると世の人々は言うのだろうけれど、自分の場合はそんなのは稀で、感情や思考がぐちゃぐちゃしてくることの方が多く、悩むことも多いので、心の安寧を保つためには、振り回されないようにするには極力そういったものから、降りるべきなんじゃないかと思う。

そうする果てに僅かばかりの理解者が出てくるかもしれないから、そういう関係だけは後世大事にしていきたいものです。

 

自分にとっての人間関係はとても流動的なもの。

自分と相手の状況や感受性に応じて、その時その時で変わっていく流れのようなもの。

 

決して他人事・・・ではないのだけど、SNSでいろんな人と繋がるなんてやっている人の気がしれない・・・。

 

これ程多くの他人がいる中で、多くの価値観がある中で、いろんな能力や特技を持つ人がいる中で、「自分らしく生きる」なんて事が可能なんだろうか?

酒を飲まないなんて人生半分を損している。

とかいう記事があって、安達祐実氏が反論、コメントにも「価値観は人それぞれだ!」とかいう内容で溢れていた。

それはどうでもいいのですよ。それよりも「半分」って何だ?ということの方が気になる。

「酒の美味さを味わえないなんて、君はかわいそうなやつだ」ならわかるんだ。

人生の「半分」が「損」になるってなんなんだ・・・?

さっき一時間程散歩に出かけていて、ずっと考えていたのだがわからない。

散歩に出かけるとわけのわからないことを考えてしまう。

 

例えば80歳まで生きるとして、40年間損しているのだろうか?

人生そのものに対して損なんだろうか?人生の娯楽に対して損なんだろうか?

100の娯楽ってなんだ?この世の全て、人間が娯楽だと感じられるもの全てが100で酒を飲まないと、その半分が損になるってことだろうか?

そりゃどうだい。大げさ過ぎるでしょ。

 

何が損になるんだろう?味を楽しめないことが?

しかし、元々酒を飲まない人にとっては、そもそも「損」にならない。

自分は酒は飲まないのだけど、今28だから少なくとも8年間損をしていたことになる。

「何が?」と考えるとわからないんですよ。他に娯楽はいくらでもあるし、その半分が「酒」だとは思えませんから。

 

酒を飲まないと・・・

酒代がかからないし、健康のリスクも防げる。飲み過ぎて同じ話を何度もしたり、変に絡んで迷惑をかけたり、ゲロを吐いたり、酒の匂いで敬遠されることもない。

寧ろ飲まない方が得じゃないか。

 

しかし、「半分」とはなんなんだろうか・・・?何故「半分」と限定したんだろう?わからない。

 

考え方が根本的に間違っているのか・・・?

デッサンの本を読んでいると、描き方の他にも作業風景の写真が何枚かあって、その中には姿勢がどうのこうのという解説もある。見ていると、とても堅苦しく感じてくる。

只でさえ理論、理論、理論。解説、解説、解説続きなのに、知識を得たい貪欲な人ならともかく、これから始めようとする人が楽しんでやれる雰囲気ではないような気がする。

絵を描くという情熱的な創造的な行為が、こうも堅苦しく、気難しいものでいいのだろうか?

子供の描く絵を見ると、確かに「上手い!」とは言えないがエネルギッシュで、何を表現したいのかはちゃんと伝わってくるし、何より楽しかったであろう事が感じられるじゃないか。

理論を突き詰めて凄い絵を描くのもいいけど、原点はそこじゃないのか、とか考えていた。そんな折、読んでいた本にこんな話があった。

 

以下引用。

「 創造 する こと」 は 人間 の 本能的 な 衝動 だ。

 小さい こども は 紙 や 壁 に やたら に 描き まくる だろ う?   駆け まわっ て 遊ぶ 肉体的 な よろこび を 抑え てまで、 じっと 絵 を 描い て いる。 それ を 見る と、 絵 を 描き たい という 欲望 が いかに 強い かが わかる。 ところが、 その よろこび を 小学校 の 高学年 あたり から 失い はじめ て しまう。   それでも 絵 を 描き たい と 思う ひと は 少なく ない。 学校 の 図工 の 時間 以外 には 描い た こと が ない から、 どんな ふう に はじめ たら いい のか わから ない けれど、 描い て み たい ─ ─。 そういう 者 が 集まっ て サークル を つくっ たり、 絵画 教室 に 通っ たり し て いる。

  この とき か なら ず やらさ れる のが 石膏 デッサン で あり、 モデル の 写生、 静物、 風景、 つまり は 写実 の ため の 技法 だ。 見え て いる もの を そのまま に 写し とり たい わけ じゃ ない のに……。 それなら 写真 の ほう が よほど 手っとり早い し、 ずっと 迫真 性 が ある。  〝 描き たい〟 という のは つまり、 なにか 外 の もの では なく、 内 に ある もの を 溢れ 出さ せ たい、 表現 し たい という 衝動 の はず だ。   その なに かが 何 で ある か、 どう すれ ば それ を 引き出せる のか、 それ こそ が 問題 な ん だ。 それ は 絶望的 なほど むずかしく、 しかし 芸術 にとって いちばん 大切 な ポイント だ。 じつは 専門家 でも、 いや 専門家 で ある ほど 見失い やすく、 けっして 技術 だけでは 解決 でき ない 本質 の 問題 な ん だ。   ところが「 絵 を 描く」 という 話 に なる と、 石膏 デッサン だ、 花 の 写生 だ と 脇目 も ふら ない。 そこ には し ち めんどくさい 描法 の 約束 ごと が あっ て、 なかなか うまく いか ない。 ギクシャク し て いる うち に 描き たい という みずみずしい 衝動 が 消え、 イライラ する だけ。 けっきょ く、 おもしろく ない とやめてしまう。

絵の技術についての考え方が根本的に間違っているんだ。

それを一言で言い表したのが、「芸術は上手くあってはいけない。きれいであってはならない。ここちよくあってはならない。」という三原則だ。

 

岡本 太郎. 自分の中に孤独を抱け (Kindle の位置No.1480-1489). 青春出版社. Kindle 版.

 

自分の実感としても、絵を描くことの楽しさを知る前に、理論の山に埋もれ挫折していく人が多いのではないだろうか。

f:id:evange-cr-c89e:20180802225106j:plain

この絵は今日の昼頃描いた絵で、恐らく妹が数年前に買ったスケッチブック(もとより奴は絵なんか描かないのに)を服の山の中に埋没していたの親が発見したのを切っ掛けに描いた絵だ。

理論なんか殆ど知らないし、実際「どう描いていいのかわからんなぁ・・・」と悩みっぱなしで、出来てみれば「なんだコレ・・・」だけど、意外と楽しめた。

(結局デッサンなわけだが)

きっとそういう実感が何より必要なんだよ。

 

 

 

自分の中に孤独を抱け (青春文庫)

新品価格
¥778から
(2018/8/2 22:56時点)

 

偏屈への道

勉強するとき時々ラジオを聞くんだけど、今日やっていたのが、お寺好きを繋ぐイベントを主催している人の話。

更にそこから発展させて、お坊さんまで含めた合コンまでやっているのだとか。

「え~当初は罰当たりだとか言われましたが~」とか言っていましたが、そんなことはどうでもいいのです。

 

それより気になるのが「なぜそんなに人と関わりたがるのか?」ということ。

趣味が合えば、感性も合う。そういう人とは理解し合え、長く楽しく過ごせるとか言っていましたが、前職との先輩や数少ない友達?との関係を考えると、同じ事柄が好きでも他人とは見てる所や感じ方はやっぱり微妙に違って、盛り上がるようなそうでないようなってことなんだ。

自分の場合だと両者共通することでも大抵相手の方が熱意があって、詳しくて、いろいろ思い出を語れて、どうしても聞き手に回らざるを得ず、関心する一方、すぐに疲れてしまうということ。

自分よりも詳しかったり、技術が上だったりすると、「くそ!あいつの方が上なのか!」とつまらない感情に振り回されたりも・・・。

とにかく「わかるわかる!」みたいにならず、なんかこう・・・「微妙にズレる」んだよ。

世の人々は共通事項があれば、さほど会話を継続していくことに疲れを感じないのだろうか。

確かに他者がいた方が、何かと広がりがあるし楽しい一面もあることは認めざるを得ない。

しかし、悩みは?と聞くと大抵人間関係が出てくるであろうに何故そんなに関りを持ちたがるのか、わからないです。

どうしても他人に合わせなきゃいけないですから、疲れませんか・・・?

 

その後、彼が曲をリクエストして、それが女性のお坊さんが作った曲で「ありがとう」を連呼する曲なんだ。

これが聞くに堪えない。下手という意味ではなくて、特に「ありがとう」という気分でもないのに、ありがとう、ありがとうと念仏の様に唱えられては何だか「うわー・・・!」みたいな感じになってラジオを切ってしまった。

以前も書いた、飲食店で1人が「ありがとうございましたぁ!」と言うとそこら中で「ありがとうごいましたぁ!」が次々発せられるストレス。あれに似ている。

そりゃあ、感謝の気持ちは大事ですよ?そういう理論、一般常識の理屈はわかっていますし、「小さな」感謝は忘れないよう心がけております。

だけどねぇ・・・。

ダメ押しの3度目

最近いろんな参考書を読んでいると、著者は例外なく美大を出ている連中ばかりなんだね。いや~描く絵はどれも凄いなぁと思いつつ、美大を出ていないと実力や発想や理論は身につかないのでは?と思ったり。

まあ、結局努力次第でしょうか。

 

で、やっぱり諦めきれなかったので三度挑戦。

 

f:id:evange-cr-c89e:20180724155658j:plain

一発目。全然言っていることがわからなかったので、後半もう投げやりになってしまったやつ。

 

f:id:evange-cr-c89e:20180724155920j:plain

二発目。そこから多少何かを掴んだ・・・ような気がしたが、大して変わらず。

 

f:id:evange-cr-c89e:20180801122600j:plain

そして三発目。

上手く見える影のつけ方、理論については結局最後までわからなかった。

前二回は集中力が持続せず2、3回に分けて描いたのを、今回は1時間ほどで描き上げた。

お手本を見ると、かえってわからなくなるので殆ど見ずに、「う~ん、何か現状の技術で表現できそうなものはぁ・・・」と考えながらの作業だったんだけど、いろいろ無理やり感が出てしまったような・・・。

 

光と影を理解し、表現できるようになるまでは、まだまだ時間が掛かりそうである。

当ブログではGoogle Analyticsを利用して、アクセス解析を行うためにcookieを使用しております。 Google Analyticsで集計したデータは、当ブログのアクセス解析や改良、改善のために使用させていただくものとします。 なお、cookieは個人を特定する情報を含まずに集計しております。 Googleによるデータの使用については、「ポリシーと規約」を参照してください。