一人舞台

生きづらさに悩む、元ひきこもりのブログ、日記

生き辛さに悩む元(暫定)ひきこもりの「日記」

デイケアで羊毛フェルトに挑戦

毎週金曜日は通院先で就労支援デイケアの日。何をするかというとソーシャルスキルレーニングといって、会話の仕方やメモの取り方など社会復帰に必要とされる技術や知識を参加者と実際にやってみて身につけるもの。

それで、先週棚に置いてあった羊毛フェルトの参考書を暇つぶしに読んでいて、面白そうですねと職員に話したら、「午後のデイケアであるから、交流がてらやってみない?」と誘われたので参加してみた。就労!就労!ばかりでは疲弊していくでしょ。

 

 

今日の成果。何か伝わり・・・ますかね。何分初めてで、「あ!針で刺して固めていくんだぁ!」と、そんな感じだった。ネットで失敗作の画像を見て笑っていたけど、いや、難しいですわ・・・。しかも自立しないという。

あんまり人がいなかったのか、職員と二人で作業していたんだけど、その間いろんな利用者が「なにしてるのぉ?」と声を掛けてきて、職員と友達のように気さくに会話していて、「ああ、この人は沢山の人に愛されているんだなぁ」と感じた。

今までの経験だと、「職員と世話になる利用者」という関係しか経験してこなかったので、新鮮であった。

それにしてもいろんな人がいて、ごく自然に会話をしていく。自分にはない能力で「皆さらりと会話をして、さらりと去っていく感じが自然でいいですね。皆顔なじみなのか、ごく自然に打ち解けていて、学ぶことが多いというか、羨ましいというか」みたいなことを話したら職員は「いやいや、皆好きなことを勝手にくっちゃべっていくだけだから笑」なんて言っていたけど、ああはなれないなぁと。

精神や発達障害関連の病院なので、観察していると普通そうに見えても、失礼ながら何かしら欠如があるんだなぁとそんな印象だった。とはいえ、皆楽しそうである。

一般社会で生きているとこういう独特の雰囲気の場所は、お目にかからないだろうなぁ。

 

今まで会話や人との関わりを上手くならなければと思っていたけど、周りを参考にしつつも自分のペースや感性、苦痛にならない人数でいいのかもしれない。

無理にああならなければ!なんて考えていると苦しいし、自分の感性も消えるでしょ。

他方、ああいったノリというか、コミュニティに馴染むのが困難な人もいるだろうなぁと想像する。

意見を被せられると不快である

今日も若者サポートステーションのセミナーに参加したのだけど、それには少々迷った。

講師の人が前回来た人と同じである可能性が高いからであるし、やっぱりそうだった。あの人苦手なんだよなぁ・・・。リズム感というか、感情というか狂ってしまう。

 

evange-cr-c89e.hatenablog.com

 

それでも参加を決めたのは、セミナーに価値があるから・・・ではなくKさんが参加するかもしれないからだ。

最近見かけなかったから、もう卒業してしまったのか?それともコロナに感染?なんて思っていたけど、思惑通り参加してくれたわけだ。

席も隣だから声を掛けたかったのだけど、緊張と件の講師の人がまたやかましい感じで、すっかり興が冷めて諦めかけていた。自分で言うのもなんだけど、繊細なんですよ。人が多かったり話し声が大きかったりすると大変ストレスであるし、意欲がやられてしまう・・・。

ところが持っていた鉛筆についたネズミのフィギュアのおかげで、話す切っ掛けができたではないか!奇跡と今日一番の収穫である!セミナーなんぞよりも他者との交流でしょ!やっぱり人とリズム良く話ができると元気が出てくるし、Kさんとは考えや境遇が近い。ただ、あの環境で話を広げるのは難しいだろう。

 

それにしても講師というかスタッフというか、嫌なのは最後に質問はありますか?と聞かれたから、セミナー中にも少し話が出たから素朴な疑問として、「人間関係で仕事を辞めるとはどういうことですか?」と尋ねた。いじめ?パワハラ?かなと。

ところがイマイチ釈然としない回答というか、隣のスタッフと話し合いになって、ちゃんと答えてもらえた実感が得られなかった。あれは答えてくれたのだろうか。

働くことに対する不安はあるか?と聞かれたから、「不安もそうだけど、一番つらいのは労働時間・・・云々」と答えたら、言い終わるか終わらないかの内に、それはこうだ!それはああだ!と意見を被せられて不快だった。

「人は自分が話すより長く相手に喋られると不快になる」という話を以前聞いて、ああ本当にそうだなぁと実感する出来事だった。支援施設でスタッフに壁を作るのはこういう所が大きい。

 

 

まあ、確かに相手の言い分は正論ではあるし、うじうじ悩んで「はい、でも・・・」なんて言う人は鬱陶しいとは思う。働くことに対しては高校3年からずっとこんな感じである。

とはいえ、正論が正論であるが故に圧を感じ、受け入れがたい。正論だから納得といくのなら、この世に悩みはないでしょう。故に気を付けて使わなければならないとは、通院先のデイケアのスタッフ談。

だから同じ目線で話ができて、「そうだよねぇ、そうだよねぇ」と共有できる人を求めているのかもしれない。Kさんはそこに近そうなのだ。

世間ではそれを「傷のなめあい」というのだろうけど、世知辛い世を渡っていくのには必要なことではないかと思う。なめあう相手すらいないってどうよ。

話を聴いてもらえると気持ちも落ち着いてくるし、気分も向上するもんです。自己、他者理解に繋げられるし、そんなこんなで前に進む気力も湧いてくるのでは?と思う。

意見を被せられると不快であるし、一人ではやっぱりつらい。

 

 

 

必要なのは問いを共有できる人?

最近は若者サポートステーションなり、デイケアなりで人と交流する機会が増えてきた。他人に対する警戒心も少しは落ち着いたのか、雑談もできるくらいにはなった。

それはそれで楽しいからいいんだけど、終わってみると妙な空虚感というか孤独感というか、そういう隙間風が吹くような感じがある。関わったが故の孤独?

いきいろ話してみると世界観が違うというか、例えばある人は家族仲が良くて、ひきこもっていることに対して今のところ焦っていたり、問題意識に絡められているわけではないとか、隔たり?を感じてしまう。枠組みの違いに悩むような。

他にも皆会社見学に行くなりして、行動できているのに自分はそんな気にはとてもなれない取り残される孤独もある。

自分の意見を発表するときにも他の人は誰にでも通じるような話をする中、自分は内面の小難しい話ばかりで浮いているような。こういう理屈っぽい自分の一面が嫌なんだけど、どうしようもない。

 

「人間関係が必要だ」

 

そう何度も書いてきたけど、やっぱり誰でもいいってわけじゃなくて、自分が欲しているのは「問いを共有できる人」なんだと思う。

人とか関わっても空虚、孤独感を払拭できないのであれば、もうどうしたらいいのか。

親の心配とは

今日は食卓で親に「いろいろ話してくれないとわからない。心配しているんだけど」なんて言われたんだよね。

心配しているなんて言われるのはとても嫌である。ある種の要求というか、重圧を感じられるから。

心配しているから話をちゃんと聴こうとか、一緒になって考えてみようとは決してならず、親が心配しているのは自分個人ではなく、将来や金銭、就労問題なのである。ものすごく一方向的なんだよね。

それに自分の話をするといつだって嫌な感じになってしまう。否定されるか、意見されるか、バカにされるか、話の腰を折られるか・・・。今度こそ今度こそと思ってもダメになってしまう。

親に自分の話をするのはとても嫌である。この問題を解決するにはやはり自立と関わらないことが最適解に思える・・・。

介護問題としてしか扱われない

コロナ騒動も落ち着いて、検査も陰性になったということで様子を見に、祖母の所へ母と行ってきた。

転んで怪我をして寝たきりに・・・という話だったので心配だったけど、思ったよりはマシだった。とはいえ、それ以前からあった鬱や食事が取れないことによる体力の低下も重なって、とても健康とは言い難い。

叔父と母との話題と言えば、「ああしては?こうしては?いやそもそも本人のやる気が・・・」云々といった感じで、それも必要なことだとは重々理解しつつも、「介護問題としてしか扱われない」ことが自分と重なるようで身につまされる思いであった。

とても孤独ではないか?と思う。誰も自分個人として向き合ってくれる人、話を聴いてくれる人はいないだろうし、来年90歳ともなれば、社会的役割も当然ない。

人間関係も、そもそも通っていたデイケアがコロナの発生源だったので、当分通えないだろう。

死にたい死にたいと口にしているようだけど、どんな訳があるのか?それに寄り添ってくれる人なり環境なりが必要なんだと思う。一人の人間として接してくれるね。

とはいえ自分に何ができるわけでもないし、本人があんな状態では。少しでも食べられるようになって、体力を回復をしてくれることを祈るばかりだ。

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