今日も若者サポートステーションのセミナーに参加したのだけど、それには少々迷った。
講師の人が前回来た人と同じである可能性が高いからであるし、やっぱりそうだった。あの人苦手なんだよなぁ・・・。リズム感というか、感情というか狂ってしまう。
それでも参加を決めたのは、セミナーに価値があるから・・・ではなくKさんが参加するかもしれないからだ。
最近見かけなかったから、もう卒業してしまったのか?それともコロナに感染?なんて思っていたけど、思惑通り参加してくれたわけだ。
席も隣だから声を掛けたかったのだけど、緊張と件の講師の人がまたやかましい感じで、すっかり興が冷めて諦めかけていた。自分で言うのもなんだけど、繊細なんですよ。人が多かったり話し声が大きかったりすると大変ストレスであるし、意欲がやられてしまう・・・。
ところが持っていた鉛筆についたネズミのフィギュアのおかげで、話す切っ掛けができたではないか!奇跡と今日一番の収穫である!セミナーなんぞよりも他者との交流でしょ!やっぱり人とリズム良く話ができると元気が出てくるし、Kさんとは考えや境遇が近い。ただ、あの環境で話を広げるのは難しいだろう。
それにしても講師というかスタッフというか、嫌なのは最後に質問はありますか?と聞かれたから、セミナー中にも少し話が出たから素朴な疑問として、「人間関係で仕事を辞めるとはどういうことですか?」と尋ねた。いじめ?パワハラ?かなと。
ところがイマイチ釈然としない回答というか、隣のスタッフと話し合いになって、ちゃんと答えてもらえた実感が得られなかった。あれは答えてくれたのだろうか。
働くことに対する不安はあるか?と聞かれたから、「不安もそうだけど、一番つらいのは労働時間・・・云々」と答えたら、言い終わるか終わらないかの内に、それはこうだ!それはああだ!と意見を被せられて不快だった。
「人は自分が話すより長く相手に喋られると不快になる」という話を以前聞いて、ああ本当にそうだなぁと実感する出来事だった。支援施設でスタッフに壁を作るのはこういう所が大きい。
まあ、確かに相手の言い分は正論ではあるし、うじうじ悩んで「はい、でも・・・」なんて言う人は鬱陶しいとは思う。働くことに対しては高校3年からずっとこんな感じである。
とはいえ、正論が正論であるが故に圧を感じ、受け入れがたい。正論だから納得といくのなら、この世に悩みはないでしょう。故に気を付けて使わなければならないとは、通院先のデイケアのスタッフ談。
だから同じ目線で話ができて、「そうだよねぇ、そうだよねぇ」と共有できる人を求めているのかもしれない。Kさんはそこに近そうなのだ。
世間ではそれを「傷のなめあい」というのだろうけど、世知辛い世を渡っていくのには必要なことではないかと思う。なめあう相手すらいないってどうよ。
話を聴いてもらえると気持ちも落ち着いてくるし、気分も向上するもんです。自己、他者理解に繋げられるし、そんなこんなで前に進む気力も湧いてくるのでは?と思う。
意見を被せられると不快であるし、一人ではやっぱりつらい。