今朝ぷらぷら散歩をしていたらお婆さんから「こんにちは」と声を掛けられた。
いつもなら考え事をしている時に急に話しかけられても困惑するので返事は諦めるのだが、妙に愛想が良かったので今回はなんとか会釈で返した。感じが悪かっただろうか。
こんな些細な事でさえ、長年引きこもっていると「ああ、人間として認められたなぁ」と感じるのである。
何でもない他者が、どんな小さな事とは言え「自分を認めてくれた人」に変化した瞬間だった。
引きこもりにこそ人間関係が「他者」が必要である!
自分の思い込みであり、同時にもう確信でもあるのだけど、現在進行形で引きこもっている人の人間関係と言えば「引きこもる自分」と「それを嘆く親、家族」だけしかないでしょう。親身になって話を聞いてくれる、肯定してくれる友人とかいないでしょう。
いつまでそうしているんだ?親が死んだらどうするのか!あれ行け、これ行け等々・・・そんな会話しかしていないでしょう。
(因みに自分が正にこれです)
自分の意志を見つけるのにも、自信を付けるのにも他者が必要不可欠である。全部相対的なもの、刺激が必要なものだから。
孤独を一概に否定するつもりはありませんし、むやみに群れる学生のような人間関係を賛美するつもりもありませんが、人間関係、他者が必要なんだと思う。
自分に自信がない。能力が無い。受け入れてくれる場所も人もいない。あらゆる事がとにかく嫌でしかたがない。自分には何もできやしない。果たして本当にそうなのか?
それを判断するのはすべからく他人なので、他人との接点が無いと、一人で引きこもっているとどんどん認知が歪んでおかしくなってしまうと実感する。
他人と接して自分を知る。つまり調整役としての他人が必要なのである。
これが前述の「引きこもる自分とそれを嘆く親、家族だけ」の関係で完結してしまうと、どんどん意志や自信は失われ暗く深い深淵へと飲み込まれて、先日の番組みたいになってしまうのだと思う。
よって、引きこもりに外へ出るよう促す声は昔からあると思うし、それはほとんどの場合「仕事」になって、勿論その方が効率は良いんだけど、仕事だと使える人間でなければならないし、評価の基準が引きこもりにとっては厳しすぎるように思う。強い人、有能な人ならいいけど、そうでなければ引きこもり地獄を悪化させるだけになるように思う。自分のように・・・。
「急がば回れ」ということで集まりから初めて、自分自身を「調整」していくのがいいんじゃないかと思うのだけど、現実は厳しよね。