ここ最近「前を向いて一歩を踏み出すために人間関係が必要。それは今の家族や支援者との関係性だけでは、ダメな自分しか見えてこず、前を向くどころか、生きる気力が削がれていってしまう。だから、そうではない自分を見てくれる、気づかせてくれる人が必要だ」そんなことばかりを考えているせいか、承認欲求について考えることが多い。
若者サポートステーションの担当者曰く、「他者からの承認に頼ってもダメでしょう。そんな人見つからないかもしれないし。それよりも良いことを考えるべきだ。一日に3つ良いことを考えよ」と。
確かに専門書にもそんなようなことが書いてあるし、否定はしない。だけども、自分のように他者の存在が極めて限定的且つ、基本否定ばかりで、他の人からの刺激がないと、もうそれではどうにもならないことだとも思う。
自己承認しようにも他人の視点がなければ、それが良いことなのかそうでないのかの判別すらつかない。やはり他者に教えてもらわなければわからないのではないか。
喉が渇き、空腹な状態で、水も食料も無ければ死ぬしかないでしょう。
自己承認で完結できるのは軽症・・・例えば仕事や人間関係でちょっとした躓きがあって、少し落ち込む程度のものでしょう。
試しに何か良いことや楽しいことを書いてみるも、散歩以外終日家にいるし、前述の通り人間関係も無い。書けることなどすぐに枯渇してくるし、どう考えても鬱屈した気持ちは自分の中に存在するし、それを無理やりいい方向へいい方向へとしても無理しているようで、苦しくなってくる。自然じゃあない。ブログが何年も書けるのは、鬱屈した気持ちが自然であり、それをそのまま書いているから続くのである。
楽しいこと?無いです。そんなの。
例え鬱屈であってもそれも自分の一面であるし、なんだか変な話、自分で自分を否定しているようでつらくもなる。どっちが否定なんだか・・・。