今日は若者サポートステーションで臨床心理士の方との面談だった。
そこで「何故自分は就労に向かえないのか?」を話してみた。自分自身でさえ、はっきりとした理由はわからないから、言語化していく中で何かヒントでも掴めるかなと思ってのこと。
ただ、明確な答えをポンと出せるテーマではないし、やはり少々重苦しい空気になって会話を切り上げたくなる。聴いてほしいと思いつつも、悩みや苦しさを語る、言語化して相手にわかるように伝えるのは体力的にも精神的にもつらいものだなぁと。
先方の回答としても、「それは具体的にやってみることでしかわからない。向いていそうな職種を探してみたら」と。
そんなことはね、わかっているんですよ。いくら部屋で一人考えても答えが出ないことからもあきらかである。
ただ、自分はそれ以前の話なんだよね。もう就労に向かう話さえ嫌なのである。全身から拒絶したくなるソワソワとした感じが出て、その場から離れたくなるような。
「やってみなけれわからないから、じゃあやってみます!」なんて語れる人やそのようになれる人は、ひきこもってないで自発的な行動に移れるのだと思う。
根本にあるのは「またあんな思いをしなければならないのか」だと思う。
カウンセリングというものがどうあるべきなのか、専門家でないからわからないけど、4話すと6返ってくるようで、何か結論や答えに持っていかれているようで、話しているのか聴いているのかわからなくなって、しんどくなってくる。相談するのも案外つらくて苦しかったりするもんです。明確な答えの無い話は特にね・・・。
他の利用者のスタッフ含む相談を聴いていると、自分の意見で持ってすぐに解決、結論に持っていこうとするやりとりが頻繁に見られる。
「それじゃあ、だめだよ」「こうしなさい、ああしない」と。
確かに口当たりの良い事ばかりでは、最終的に困るのは相談者なんだけど、開口一番意見助言では辟易してこないだろうか?
散々抱えて悩んで苦しんでどうにもできなくて、話を聴いてくれないかと頼ってきたわけだから、寄り添って「聴いてもらえた安心感」があってから・・・ではないだろうか。そうでなければ、内心理解しつつも受け入れる心情にはなれないのでは。
人の話を聴く、聴いてもらえたとはいかなることなのか。