一人舞台

生きづらさに悩む、元ひきこもりのブログ、日記

生き辛さに悩む元(暫定)ひきこもりの「日記」

同じ悩みを持った人

何かに悩んでいるとしましょう。

まあ、理解されないから悩むわけですし、具体的に「何」とは言いませんが、それは普通の事を普通に出来てしまう人、至って普通に周りに順応できる人には想像できない悩みだとしましょう。
 
そんな中で、同じような悩みを持った人に会った時に感じる安心感?は「そういう悩みを抱えていてもいいし、そういう人間がいてもいい」という感じからくるのではないかと思う。
 
孤独は案外平気なものですが、「孤立」はとてもつらいことでしょう。

ニートはつらいよ

自分の中にもまだ油断があって、母から喫茶店でも行こうと誘われると、「まあ付き合いだから」とついていっていしまう。

その結果が延々と続く文句のラッシュである。

就労支援の成果はあったのか?別の就労支援に行くべきではないのか?ハローワークに行って、求人票の検索でもしてこい、親の負担を考えろ!いつまでも親を働かせたらアカン!誰々は親に楽をさせてあげたいから云々で、お前にそういう気持ちはないのか!等々。

 

親の言うことは正しい。確かに自立すべきなんだ。しかしその正しさ故に、こちらは反論することも弁解することもできないのである。下手に反論や弁解をしようものなら、更に状況を拗らせてしまう。それらに対する、納得してもらえる答えを持ち合わせていないのだ。返事に困る。

困って「あー・・・」とか「うーん・・・」とか言っていると、そんな態度が釈然としないのでしょう「あー!もうダメだ。やる気が無い。生活保護でも受けるか?だけど受けるのも大変なんだぞ?」とくる。

物凄く居心地が悪い。落ち着かない。今すぐ帰りたい。もう雑談に応じる気力さえ無くなって、力なく返事をしていると「覇気が無い。昔はもっとマシだった」とくる。そりゃ目の前に気力全部を奪い去る人がいるのだから仕方がない。それをなんとか堪えてまいりました。親に会うと、自尊心が粉々になる。

 

社会に出る、集団生活の中に入る、対人関係、長時間労働、働いて自分の価値を証明していかなければならない、それらが不安で仕方がない。

過去の挫折経験から積もり積もった、この根強い抵抗感をどう説明すればいいのだろうか?いや、説明したところで「あーあ、じゃあ、生活保護だな」くらいにしか言われないでしょう。言わなきゃよかったってなる。

何で普通でなければならないのか。皆と同じでなければならないのか。引きこもってちゃいけないのか。なんで、なんでこうなった・・・。

 

働け、働けばいい、なんて脳筋的な単純な話ではないのである。

ニート、引きこもり問題はもっと根深い所にあるはずだ。もはや当人だけの問題ではない。だから脱出困難なのだ。

 

自分という存在や立場は、他人との関りあいで決定づけられるなぁ・・・。

ついでに相手の態度は、自分が与えた態度の裏返しだと痛感する。

就労支援デー R2.2.10

今日やったのは前半ビジネスにおける封筒マナーと封筒作り(なんだこりゃ・・・)と引き続きナビゲーションブックの作成。とこんな感じでした。

前にも書いた気がしますが、自分のセールスポイント、苦手なこと、配慮してほしいこと、思考の特徴、行動等を書ける。つまり把握しているのなら、少なくとも仕事を辞めるまではいかなかったのではないだろうかと思う。全く筆が進まない。

他の人の様子を伺うと、何やら結構書いていた。きっと視点が違うのだろう。

 

就労支援に通うことの何が辛いか。通えども通えども、希望の持てる話に繋がらないことなのだ。

まあでも、今日は終わった後にスタッフと少し話す時間がありまして、その人自身も仕事が嫌で何度も転々とし、引きこもったこともあったりで、今は何とかこの仕事を続けて行けてるという話が聞けたのは大きかった。引きこもっていると、その辺にいる鳥に思いを馳せるようになる。

他にも以前ここにも書いた、「老人に道案内をして、今の自分が役に立てるのはそのくらいだなぁと思った」と言う話をそのスタッフが、別の就労支援デイケアで話したら、結構反響があったとのことで、この日はいつもと少しだけ違う日だった。

世の中、ああせよこうせよと当然の様に指図するわけですが、やっぱり正解って無いんですよ。人間的な能力差や向き不向きは当然あるわけです。それを問題にしてはいけないことが一番辛いでしょう。「その前に努力したのか?」と。「辛い中、皆頑張ってるんだけどな!」と。

 

もうハローワークに通って就活とか、転職イベントに行くとか、求人誌から電話を掛けて応募とか、どれも厳しい。いずれもやりましたが、失敗ばかりで根強い抵抗感だけが残ってしまった。

孤独は平気だけど、孤立は辛い。だから就労支援でも通うのである。繋がりがあってほしいと。

仕事を探しているというか、「縁」をさがしているんですよね。

 

受け入れ先は無いし、ダメ人間に対して寛容とも言えない。誰が望んでそうなったわけでもない。そりゃあ引きこもりが増えるし、長期化するわなぁと。

周りに訳あり?な人が

夜の10時頃になると、隣の部屋から母親の怒号が聞こえてくる。

それ自体はいつもの事だけど、最近のは長いうえにもう3日も連続している。

本を読んでいる時に限って聞こえてくるので迷惑である。

それはともかく、内容を聞いていると(というかあれだけ怒鳴っているのだから嫌でも聞こえる)「何回同じことを言わせるんだ!!ちゃっとやれって言っただろ!!」とかなんとか言っている。

で、高校生の一人息子が嗚咽を漏らしながら「わかってるよぉぉ・・・」と反論すると

「わかってねぇーから同じことを言わせんだろ!!」と怒号が続く。

あれ・・・なんかどこかで・・・。

 

こんな感じでここ最近2時間近く、3日連続で続いているのである。えらい体力のあるおばちゃんである・・・。

一体何をそんなにいつも怒鳴る事があるのだろうか?ひょっとして隣の息子も発達障害があったりするのだろうか?

 

ついでに言うと下の部屋に住んでる息子と娘も怪しい・・・。

息子はバイト?から帰ってきた時、恐らく鍵を忘れたのだろう、インターホンを押せばいいのに、やけに強く扉叩きまくるのである。

彼の使う自転車が玄関先に置いてあるのだが、ハンドルバーが反転していて、ブレーキレバーが真上に来るという、大変不可解な状態で使っているのである。

高校生の娘も平日の昼間に親に連れられて何処かへ行くのを何度か見かけている。

横や下共々、なんかあるな・・・。

 

更に最近いつもの散歩コースの池の広場で、中学生男子と思われる少年が、一人リフティングの練習をしているのを見かける。学校に通っていなければならない時間帯のはずだが・・・。

 

確証は無いですけど、こうしてみると、見えづらいだけで案外普通のレールに乗れない人は多いのかもしれない。

大体、普通と言いうのも単に数が多いというだけであって、絶対的な真理ではない。

誰だってなりたくてなったわけじゃない。自分では選べないのだ。

それでいて、世間様から甘えだのクズだの何でもいいから働けと言われ、社会に出たら出たで、バカだの使えんだの言われるのだからやっていられない。

 

よく周りと同じように追従していくことを「軌道」に例えるけど、同じように「軌道に乗れない人の為の軌道」を施設していく方法を考えていく方が、ずっと建設的で生きやすくなるのかもしれない。そうならんかなぁ・・・。

楽器の習得は大変だ

見た目以上に大変だ。なんでこんなに大変なんだろう。

今にして思うと、まだギターは簡単な方だとは思うのだけど、楽譜と手元を行ったり来たり(これが結構疲れる)、日常生活ではまず必要のない指の動きと、ちょっと熱を入れ過ぎたのか、ここ最近関節が痛い。

 

思えば学生時代、鍵盤ハーモニカ、リコーダー、ピアノ、琴など学校でやらされましたが、何一つ身に付かなかった。たった一曲まともに演奏する事さえできなかった。

リコーダーなんか綺麗に音が出ないんだよ。「こんなん息を吹くだけでしょ?おかしいなぁ・・・」と当時思ったのだが、その理由を数か月前に知った。

楽譜を見てもさっぱりで、正しい楽器の使い方さえよくわかっていなかった。ついでに興味も持てなかった。

だから発表のテストの時なんかは公開処刑となるのです・・・

皆が演奏できているのが不思議でしかたがなかった。超常現象だと思っていた。

だから楽器に関しては嫌な思い出と抵抗感しかなかった。

 

自分で言うのもなんですが、あんな学生時代から独学でよくここまでこれたと思う。3曲と細々したものを並行して練習しています。

ついこの前まで、楽譜を見て「こんなの演奏しろとか無理だ!」「このマークは何だ!意味が分からん!」とか言っていたのが、師範の動画のおかげもあって、だいぶ弾けるようになった。最近リズム譜や音符、拍子記号の意味がようやくわかってきた(遅すぎる!通りでおかしかったわけだ・・・)

不思議なもので、やっている内にいつの間にかできるようになる。

パートごとに唸りながら練習して、覚えて、とりあえず最後まで通して演奏できた時の快感はなかなかのもの。

そして、ここから引っかからずに、速く、綺麗に弾き切るのには今まで以上に努力が必要になると思う。

楽譜を覚えた、弾き方やリズムを覚えた。ここまでは誰でも来れると思う。最後の仕上げ←意外とここが一番難しいのだ。

安物ギターは部品が取れそうだし、ああ、YAMAHAのギターが欲しくなる・・・。

 

で、好きだったり興味がある人ならこれらを苦痛に感じずにできるだろうけど、休みの日なんかに所々でピアノの練習の音が聞こえる度に思う。自分から望んでいるやっているのか、親の教育でやらされているのか、たぶん小中学生が練習しているんだと思う。

やらされていたとしたら、きっと苦痛だろうと・・・。

しかし団地でピアノはなかなかに勇気がいることではないか。向かいから、えらい音が響き渡るのだ・・・。

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