一人舞台

生きづらさに悩む、元ひきこもりのブログ、日記

生き辛さに悩む元(暫定)ひきこもりの「日記」

自分の問題に向き合うのはとても難しい

ここ最近の日記の傾向を見ていると、なんか鬱っぽくなってきたような感じがある。

月~金まで仕事を頑張る。会社に着いて、持ち場に着いて、仕事をしている時には何者でもない感じがある。瞬間的な自己解放というか。そのせいか、作業中はあまり疲れを感じない。「あれ?気のせいか?頑張れるのかな?であれば、頑張らないのは甘えだろうか・・・」なんて考えていると、家に着いたときにどっと疲れが出てくる。特に土日は本当にだるくて何もやる気がおきない。楽しくない。ノれない。

 

それでも十分な稼ぎがあって、一人暮らしを決行しても生活に困らないような感じなら、まだ救いはある。だけども最低賃金、昇給、賞与無し。どれだけ頑張っても手取りにすると12、3万・・・。

何の為に働くのか?金か?稼げてねーじゃん!

生活の為か?生活できねーじゃん!

全く無目的に、家も会社も毎日頑張り続けているのが現状なのである。時折ふっと風が吹くように、強烈な虚しさが襲ってきて耐えがたくなる。

仕事自体は問題はないし、人間関係も同様である。ただ、冬は凍えるほど寒くて、夏は灼熱地獄と臭すぎる人達が悩みではある。

 

昨日のデイケアへの参加や主治医の診察、ハローワークでの相談で感じたことだけど、人前に出たり、会話することさえ、億劫で、だるくて仕方がない。

自分が何に困っていて、何故生きづらくて、何をどう相談すればいいのか全くわからない。相談に来たはずなのに、時間と手間を取ってもらっているのに、なんだかよくわからないまま相談を進行させてしまって、なんだかよくわからないまま終わってしまう。何かを提案されても、どうにも納得できず、動くことが億劫でしかたがない。もう相談することが後ろめたくなってしまう。

 

自分の問題に向き合うのはとても難しい。向き合い難い。向き合うとそこにはとても高い壁がそびえ立っているような気がして、立ち向かわなければならなくて、目を背けてしまう。

これは一人では決してできない。相対化してくれる、第三の目で見てくれる他者なくしては、決してわからないことだとも感じる。

なのにそこから逆行するような態度ばかりとってしまう。苦しくてしかたがないのに、何故変化を拒むのか。

 

 

 

 

土日も嬉しくない

ここ最近、休みの日になってもだるさが続く。なんか体が重い。おおよそ能動的なことはほとんどできず、何もする気が起きず、やっても全く楽しくなく、寝てるか、茫然としているかである。平日は仕事で肉体的に疲れ、休日は精神的に疲れるといった感じか・・・。

こんな調子で何もしていないはずなのに、鏡を見ると仕事終わりみたいなやつれ方をしている。この疲れはやっぱり気のせいではない・・・?

体は動くからと、なんとか仕事は頑張っているし、できるけど、それ以外のことができなくなったような気がする。だるい。

この間、勤続18年の人に給料明細を見せてもらった。自分とほとんど変わらない。

一体何を目的に毎日頑張っているのか。そんなことは考えちゃダメだ。折れてしまう。

ひきこもりの皆さん。ネットで聞きかじったり、就労支援なんかに通うと「働きだせば、この状況は良くなる」という幻想がありますが、現実はこんなもんです。

誕生日おめでとう

なんて言ってほしくない。おめでたくはない。

好きで人生を始めたのでは、芥川龍之介の河童みたいなやりとりがあって始めたのではない。好きで自分をやっているのではない。大体、そう語る時の「自分」とはいったい誰なんだ。

 

週5、8時間働き続けることが、やっぱりしんどい。水曜日まではいけても、木曜日辺りから結構疲れが出てくる。それを頑張っても今度は「家での人間関係」がある。

人間関係の重要性はわかる。寧ろ自分は大切にしたいくらいである。淡い関係性ならば。だけど家族だったり、ずっと一緒に居続ける近すぎる、密接な関係性は酷く疲弊させる。家の中にまで人間関係がある。それは「外」だけでいいのだ。家に帰りたくない。誰もいなければいいのに。誰も自分に話しかけなければいいのに。誰も返事を、然るべき態度を求めなければいいのに。

 

家でも会社でも頑張らなければいけなくて、鬱屈を通り越して些細なことでイライラする不機嫌な状態にある。まるで自分が諸悪の根源、悪者みたいではないか。

ならばここを離れればいい。だけど、最低賃金の時間給では自殺行為でなかろうか。

フルタイムで働く覚悟を決めても、給料は16万・・・なんていうのは総支給額の話であって、手取りにすると12、3万といったところか・・・。

頑張っても喜ぶのは社長だけで、俺は身も心も金も全部ギリギリの状態での一人暮らしじゃないか。

その上、先月から(当たり前のことではあるが)金曜日も出勤になってしまって、デイケアでの交流や方々への相談さえ、気軽には行けなくなってしまった。

苦しい家と会社の往復生活で、もう全ての道が塞がっているような気がして、絶望の毎日である。

ひきこもりが意を決して働きだしても、こんな程度が現実だよ。

 

誕生日おめでとうと言われて受け止められるようになるのは、この人生を、自分であることを引き受けなおしたときだろうか。

社会に適応できないと、生活すらままならない

当たり前か。

 

今日事務の人と話をして「実は社会に適応できないのです!具体的には週5、8時間労働ができなくは・・・ない。けど、苦しくてしかたがなくて、持って1年弱。今月から部分的に週5になったけど、失ってわかる金曜休み・・・」とかなんとか話をして、事務の人は理解を持ってくれる印象で、「つらかったら週4の8時間でもいいんじゃない?辞めるより全然いいよ」とのこと。

まあ、その考えに社長を始め、現場の人たちがどう思うのかはわからない。

それで労働の負担を解決できたとしても、今度は収入的に大変厳しくなって、一人暮らしどころではなくなるというジレンマが出てくる。

今の働き方は、支援A型で最低賃金。週4日だと、月収10万もいかないだろう。

グループホーム作戦をもってしても、これでは生活できない!

フルタイムでようやくギリギリだよ。金も体力も精神もギリギリかぁ・・・。

やはり支援A型なんぞは生活することが視野に入っていない・・・。同僚のHさんは一体どうやって生活をしているのだろうか。

なんかもう、「お前のような奴は生きる価値などない!野垂れ死ね!」とか暗に言われているようで、切なくなってくる。

労働の負担を減らして、苦しい実家暮らしか、一人暮らしの実現のため、キツい労働を、マラソンを走り続けるのかの、二者択一を迫られているのだろう。

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