働いた時の無能っぷりと、「それ発達障害じゃない?」の親の一言から、通院してADHDになり、手帳3級も取得した。若干のASD傾向もあるようだ。
だけど今にしても自分がそうなのか実感がわかない。何故なら、ネットの記事や本で書かれている程には酷くはないから。
忘れ物が多いわけではない、時間や予定はキッチリ守る。中学の頃までは落ち着きがないとしょっちゅう言われたけど、今は手癖が悪いくらいだ。衝動性も常識的な程度だろう。集中力が続かない・・・とも言えない。
ただ、働きだすとミスが多くて怒られてばかりとそんな感じである。つまり日常生活にはほとんど支障がない。
事情を話せば誰もが「いや、誰でも、自分でもそういうところあるけど」とはよく言われることである。「それで障害って甘えじゃないの?」とも。
実際のところ有無はわからないけど、ずっと無能寄りな気がしてならない。
主治医は「手帳はいるか?それで君が生きやすくなるのなら、診断書を書こう」と言っていたし、名前が無能から発達障害になったのだ。
無能に体のいい名がついたおかげで、「発達障害があるかぁ、じゃあ理解ある職場を探そう」となったけど、果たして無能なままだったらどうなっていたのだろう。自分の実態は何も変わらないのに。無能=発達障害ではないであろう。
その辺りのことを詰め寄られると、言葉に窮してしまう。
メディアで取りあげられる人は皆、何か別の方向で活かせる特技があったり、周りに理解者がいたり(なんでそう都合よく現れるんですかねぇ・・・)、運よく環境を見つけられたり、理解者が持ってきてくれたり・・・自分はどれ一つとして、思い切って飛び込む勇気も引き受ける覚悟も無い。
「だから」無能なんだと思う。か、もしくは発達障害で無能か。
2023/02/16 追記
自分に発達障害があるのだとしても、それはグレーゾーンというか、仕事のような複雑で高度な?判断をしなければならないことに携わった時に現れるようで理解を得にくいし、説明も難しい。
人に話すと「全然普通に見える。何が問題なのか想像できない。皆そんなもんだよ。気にし過ぎ。いや発達障害というのはね・・・」とかなんとか言われるのがお約束になってしまった。
「普通か否か」なんて話はどうでもいい。問題は自分というこの条件でどう生きていくのかを考えなくちゃならないことだ。
業務に問題があるのなら合理的配慮を受けなければならないし、それって何なのかを考えなくちゃならない。
週5、8時間+αの長時間労働がきついのなら、何故きついのかを洗い出して作業を負担の軽いものにしてもらうとか、労働時間を減らして別の何かで補填するのかとか。
どうしても朝起きることができないのなら、遅くからできる仕事を探さなければならない。そういうことを考えなくちゃならないでしょ。そういうことを一緒に考えてくれる味方をつくらなければ生き残れない。
上記のような感情論などクソどうでもいいし、役に立たないし、救ってはくれないし、最大の害悪として、問題の所在を見えなくさせる。
もう問題は発達障害か否かじゃないんだよ。その人の個人の悩みや問題は何で、どう手を付けていけばいいのかを考えなきゃいけないし、それには伴走者が必要だと思う。
発達障害だろうと、無能だろうと、生きていかなくちゃならんでしょ。
もう一度言うと、「発達障害か否か」という視点でしか物事を考えないと、問題の所在や対処が見えなくなる。