仕事を奪われて、その分楽になるじゃん!働かずに済むじゃん!・・・とはならず、稼ぎが無くなって困窮する!と考える人が圧倒的多数なんだろうか。「奪われる」という表現からも、不安が見て取れる。ということは人間が余って必要がなくなる?
この考えの根底には、「人の生きる価値は、社会に出て働く」という、人材というか生産性にあるというのが、無意識にあるのではなかろうか。
時々考えるのは「何故価値を考えるとき、いつも資本主義的というか、生産性なのだろうか?」ということ。もっと突き詰めると、「何故価値があるとか無いとか考えるのか?」
そんなのは一定のルールや条件の中でしか成立しないので、根源的には無いのだと思う。庭に雑草が生えていたら抜くじゃない。それも命なのだが、その価値とは一体・・・。
もっと変なことを考えることもあって、仮に自分に価値があったとしよう。それは月に行っても通用するのだろうか?火星に行っても、金星に行っても、隣のアンドロメダ銀河に行っても通用することなのだろうか?わけがわからなくなる。
隣の人が生活保護だったとしても、あっそうとしか思わないし、働いていてもそれは同様である。
ただ、働いていると偉いとは思う。だって、すんげーきちぃから。そして偉いとか、頑張っているとか、応援したいという気持ちの裏に、良きことを評価することの裏に、ぴったりと差別意識が張り付いているのだ・・・。