一人舞台

落ちてしまいそうな自分を、どうにかこうにか支えている。

落ちてしまいそうな自分を、どうにかこうにか支えている。

恨み節

この間、親と醜くいがみ合ってから、更に時を遡れば弟や友人に説教された時から、ずっと「お前の為を思って」とか「心配しているんだぞ」とかいう言葉について考えてきた。いずれもいがみ合いに発展したし、生理的嫌悪感を覚えるくらいになってきた。

聞けば聞くほど「特別心配なんかしていない」という気がしてならない。

何故ああもネチネチネチネチと、こちらの神経を逆なですることばかり言うのだろうか?親に至っては「バカにしてるのだろうか?」と思うことさえある。

考えてみてほしい。あなたが「何か問題にぶち当たって悩んでいる家族や友人がいたとする」、その人の事を仕事をしている時、食事をする時、寝る時、ふと「あの人のことがなんか気がかりだなぁ」と思ったとしましょう。何をしますか?っていう話です。

 

自分だったら、とにかく話を聞いて、その人が何について悩んでいるのか「問題のテーマ」を見つけていくようにするでしょう。とにかく「聞く」これを中心にする。

ところが連中ときたら「ああせよこうせよ。いつまでそうしているんだ」と上から目線で、自分の主張を垂れ流すだけじゃないか。

こちらが何を言っても聞き入れられず、なんだ!意見するのか!お前に発言権なんかねぇ!と言われている気分です。

これの最後に付け加えられる文句が「お前の為を思って」とか「心配しているんだぞ」になるわけです。そう言っておけば、上から目線の態度も何を言っても許される。

何故なら「心配しているし、お前の為なのだから」

更に腹が立つのが、概してこう言う連中は「自分のシンセツシンが受け入れられないと一転して攻撃的な態度に出る」ということ。

試しに「余計なお世話だ」とか「心配してくれなんてたのんでいない」とか言ってみて欲しい。おやおや、さっきまで心から心配してくれていたはずの人がこう言うやいなや、語調や表情がみるみる変わっていくではありませんか。

あんなもの一種の踏み絵ですよ。「こっちはシンセツで言ってやってんだぞ!おい!それを踏もうってのか!?」とね。

確かに心配していることに変わりはないでしょう。「いつまでこんなことが続くのか」と。親に言われるのならまだいい、結婚して婿養子になった弟とか、ましてや友人に何故そんなことを思われねばならんのか。

それにしたって「迷惑している」と言われれば傷つきはするものの、腹を立てることも恨むこともないでしょう。

結局大して考えていないから誰でも言うような、思いつくようなありきたりな言葉しか出てこないんですよ。

それを巧妙に隠して、認めず、自分は安全圏から一歩的にまくし立てるから腹が立つのです。

説教とは元々仏教用語で、詳しくはないですが自分を見つめなおす切っ掛けになる「教え」なはず。

 

引きこもることの数少ないメリットは「言葉や態度に敏感になる」ことかもしれない。

 

もし、自分が逆の立場になるようなことがあったら(まあないでしょうが)、断じて忘れてはいけないだろう。

調子に乗るなと。自分がそんなに偉いのかと。一歩身を引いて冷静でいたいものです。

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