若者サポートステーション、通院先のデイケア、そしてこれまでに頼った各種支援事業所・・・。そんな経験から思うのは、やっぱり交流って難しいということ。
難しい?別に話しかければいいじゃん。例えば隣にいる人にとかさ。
そんなことを前に書いていたし、日々のあいさつ程度ならそれで全く良いわけだ。だけども、そこから恒常的に会話ができる仲、信頼のある関係になろうとすると「相性の問題」は避けては通れない。
選り好みしているようであまり語りたくはなかったけど、やっぱり誰でもいいというわけにはいかない。
知らない人に声を掛けるなんて、それだけで緊張するもんです。ならばできれば話しかけやすそうな、自分と似た雰囲気の人がいてくれると・・・なんて、皆考えるのではないだろうか。でもなかなかそういう人はいないもんです。話すと意外と近かったりということがあるのがまたね・・・。
そうこうしている内に、周りはなんとなく馴染んでいるみたいだし、各々目的意識を持って行動しているようだ。取り残されている感じがあって、つらい、切ない、通えなくなる人もいたりするのでは?
「ただ、いる」それだけのことが、案外つらくて切なかったりするもんです。
通う人もなんだかんだ言っても大なり小なり、人とのつながりを欲して来ると思うんだけど、それが上手くいかなくて、確かに何らかの集団には属している。顔や名前も覚えた。しかし、誰とも関係していないという奇妙な感じが、心を切なくさせるのかなと思う。
黙っていて、漠然と通っていて状況が好転する可能性は、体験的にほとんど無いように思われる。
今日のデイケアは午後は先週の不調を心配してくれて、職員と面談だったのだけど、この辺に躓く人がやっぱり多いようだ。
通う意義や目的意識を見つけられなくて、居場所でさえ苦しくなってしまう。それのなんとわかることか。サポステの利用者もそんな状態にあったりするのだろうか。
これから社会に出て働き出さなければならないのに、自分の弱さが嫌になる。
最後に職員との面談で印象に残ったのが、「声を掛けたいなら、考えるより勢いで行動したほうがいい。せっかくの機会を失うかもしれないから」と。
本当にそう思う。声を掛けたいのだけど、なかなか踏み出せない。そうこうしている内にタイミングを失ってやらず終いになって後悔するのだ。
でも一歩さえ踏み出せば、案外なんとかなるし、相手もまんざらでもなかったりするし、何も無くてもできたのだから後悔なんかする必要はない。であれば、やってみたほうがいいよね。