考えることにも、悩むことにも、相談することにも疲れた。生きづらい。でも生きづらいと言ってはいけない。疲れた。でも疲れたと言ってはいけない。実は皆と同じように働けない。でも皆と同じように働けないと言ってはいけない。
やってもやってもどうにもできないし、どうにもならないという現実を突きつけられている気がする。
あぁぁ!!もう、わからんよ!!めんどくさいんじゃあ!!
って頭を掻きむしりながら、全てを投げ捨てたい気分だ。
小さなことが小さなことであるがゆえに、矮小化されてしまう。まともに取り合ってもらえない。
どうにもできなくて、どうにもならなくて、そういうことを他人に言うと「努力が足りないんじゃない?」「まだまだでしょ。もっと頑張ってよ」「誰だってそうだよ」「そんなことを言うようでどうすんの」とかいろいろ言われるわけだ。
結局そう言う当人だって、頼る人のいない、どうにもできなくて、どうにもならない人であろうから。だから許せないのだろか。
他人にぶつけることはできず、社会を壊す能力や勢いもないとしたら、酔うか狂うか、自分を壊すより他にない。
酒とかドラッグとかギャンブルとかにはまり込むとか、趣味や推しのものを狂ったように買い込むとか。そういう気持ちがわからなくもない。昔は働くことのつらさを消費で誤魔化して、給料のほとんどを使い込んで部屋が物で溢れていたけど、引っ越しをきっかけにほとんど処分してしまった。
快楽は買ったその瞬間だけで、3日もするともう興味を失ってしまう。処分の時には一体自分は何をやっていたんだと。
ただただ周りの期待と要求、世間体や漠然とした不安だけがあって、バカ正直に従うことや、無視したり蹴っ飛ばすこともできない。真面目にも粗暴にもなれない。投げ捨てるか、ブチ壊したりしたい。
30歳を過ぎても内面が全く成熟せず、また成長の機会もなく、うだうだともがいてやり場のない怒りと鬱憤をため込む、思春期の中学生のようである。
依存症は「自分であること」からの逃避
この世が生きがたいのは、根本に、「自分であること」がつらい、という現実があるからでしょう。自分が自分であることを支えていくのは大変です。何故なら「自己」という主体を作っていかないといけないからです。
自己であるということを作る基本的な文法は、因果関係です。未来の目標を定めて、過去を反省して、今何をするのか決定するーこの行為様式を担うことを「主体性」とよぶのでしょうが、これは因果関係を用いて考えない限り、成立しません。
またそれを繰り返す中で「時間」という構造が生まれてくるのだと思いますが、これは非常に面倒でつらいし、くたびれます。
近代とは、とりわけそういう「主体的な自己」として生きることを、ほとんど強制されるような時代なのです。
世の中で人間が際限なくハマるものの一つにギャンブルがあります。これは一種の中毒でしょう。なぜハマるかというと、「自分であること」を一瞬にして解除してしまえるからではないかと思います。「瞬間的な自己解除」という快楽が得られるのです。
賭け事というのは、すべての時間が「未来」にしかありません。だから、「現在」に自己の主体はいらないし、自己決定も自己責任もいりません。判断するといっても、それは”失敗込み”の話なのです。
何しろサイコロの目に託すくらいですから、成功することを信じて賭けるのとは違います。そうした決定に責任がともなうわけがありません。この状態は快感だし、何より楽でしょう。
だから、ギャンブルの興奮が生まれるのは、「丁」と言って、結果が出るまでのわずか何分間。あるいはゲートが開いて各馬がいっせいにスタートし、ゴールに駆け込むまでの時間。ここに猛烈な快感、しびれるような快楽があるのでしょう。結果が出てしまえば、何もかもがつまらなくなってしまうから、次の快楽を求めてますますハマっていくのです。
アルコール依存症など、依存症といわれるものは、みな同じ構造ではないでしょうか。自分であることを支えるしんどさが限界に来たとき、自分をまるごと投げ出したくなるのでしょう。自己を支えるために依存しているわけではなく、自己を支えきれないから依存せざるを得ない。だから、必死の防衛反応なのかもしれません。自殺しない代わり、必死に依存しているのだと思うのです。
要は、なぜそれほどギャンブルをしたくなるのかを考えないといけない。ギャンブル依存症の人を見ていると、お金があろうがなかろうが、賭けています。つまり、単にお金が欲しいということであれば、わざわざ負けることが込みのギャンブルに依存することはないでしょう。
なぜそれほど自己が重荷になっているか。その事実をまず理解した上で自己を再建しないと、立ち直ることはできないでしょう。
「自分であること」からは逃れられません。選択の余地はなく、「そうせざるを得ない」ということがわかって初めて、自己を引き受ける覚悟が決まるのです。
「南 直哉著 なぜこんなに生きにくいのか」より引用。